お役立ちコラム|播州織について

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宮大工と播州織の意外な接点|播州織

ノミ 宮大工

みなさんは、播州織がどのようにして作られたかをご存知ですか?

  実は播州織の始まりは、1人の宮大工によって生み出されたものなのです。それでは何故、宮大工が本職と関係のない織物を作ったのでしょうか。

「京都・西陣織からヒントを得た播州織」

  播州織は寛政4年(1792年)、多可郡比延庄村の「飛田安兵衛(ひだやすべえ)」という宮大工が、京都・西陣から織物の技術を持ち帰り、織機を作ったのが起源だとされています。 安兵衛は天明8年(1788年)、「天明の大火」による被害で、それまで禁止されていた諸国からの大工の雇い入れが解禁されたため、建設ラッシュとなっていた京都へと渡りました。その際、民家で女性が織布に従事しているのを見て感銘を受け、独自に織布の研究を開始。同時に織機の製作を計画したのです。その後、京都から地元・播州に戻った安兵衛は織機を創案し、完成した一機を「長機」と名付け販売。この織機を農家が購入し、瞬く間に農業の閑農期の副業として地域に根付いていったのです。

  当時、西脇市をはじめとした北播磨では、江戸時代中期から綿花栽培が盛んに行われており、すでに農業の副業として自給自足で衣服が作られていました。加えて加古川や杉原川、野間川といった河川が集まっており、水資源が豊富であるということもまた、織物が広がった要因だと言えます。

以来、安兵衛が作った織機を使用して織りなす「播州織」は、農家の副業として西脇市を中心に生産が広がります。ちなみに、当時は「播州縞(ばんしゅうしま)」と呼ばれていたようですが、明治後期以降から「播州織」と呼ばれるようになりました。

「今なお続く、飛田安兵衛と西脇市のつながり」

  現在、西脇市では毎年5月3日に、播州織の開祖である飛田安兵衛の功績をたたえる「岡の山まつり」が開催されています。このまつりは、飛田安兵衛の没後100年を記念し建立された「飛田安兵衛翁顕彰碑」で顕彰祭と護摩焚きを行い、人々の家内安全や無病息災を祈願する、というものです。播州地域を大きく発展させた産業である「播州織」を作った飛田安兵衛はこのように、今もなお地域の人々から感謝される存在として祭られているのです。

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